書評『七つの原理』 第4章「存在の原理」②丸山敏秋著
心は「いま・ここに」捉われない
まさにそれ。
ユキエは脳内多動だから、少しは捉われろよと切に願っております😢
嬉しかった過去を思い出してはあの頃は楽しかったとクヨクヨ思うし、この先はもうあんなに嬉しいことは起こらないんだろうなとまだない未来を悲観するし、これからの予定に対してきっとたいして楽しくないだろうとそこでも悲観する。
山積みの作業を見ては脳を停止させ、ああ足元を見なければと優先順位の高い順に着手し、ひとつの仕事に時間がかかると自分の能力にうんざりする。
見事に明朗忘れてるwwww
私の一番のストレス消化はどんどん仕事片付けることだから、やらんとストレス消化できんw
あと、決めたことを実行することだからそれもちゃんとやりたい😂
まあ、どんなに考えたところでやらんと意味ないからやるけど。やればできるし、終われば進む。
考えても仕方がないことだから、目の前のことに一点集中取り組む。
毎回おんなじこと考えて、毎回そこにたどり着きます(笑)
運命は自ら招き、自ら作る
運命とかそんな壮大な話じゃないなこりゃ(笑)
物の在り方の考えは深くて面白い
そうで在るべくして在るという考えは私も同じように考える。
静動と二極化して考えることはないけど、あえていうなら私は物は生きてると考えてるから動がおおもとだと捉えてるし。
形を失くしたら別物として存在すると考えるし、この世に静であるものは少ない。
ここは私の考え方のほうが自分の理に適ってると私は思う。おもしろいね😊
全力で動いてるコマが静止して見えるから「静」って、いや「動」だよ。それが事実事象であり、ありのままそれが善いで受けなさいよと思うんだが🤔
止まってみえるように見えるものでも「動」いてる。
不動の死骸ですら、中では様々なものが動き、時間の経過と共に腐敗する。
なにもしなくても「なにもしない時間」が経過し、歳を取る。
家から出ず、新しいことになにも挑戦することはなくても、プロニートとしての熟練が増す。
止まっているように見えるものでも、時間の制約が「動」の因果から抜け出すことを阻むんだよ。
高速回転する「動」の極みが「静」を極めるという考え方は、いや、一周回って面白い発想だが事実と離れると思う。
文章を読めば読むほど、自分で矛盾することを解説しては矛盾したまま着地してる。
説明できとらんやん🤔まいっか。
次の章で「そのまま受ける」という(´⊙ω⊙`)
ほら、静と動の解釈と矛盾するでしょ?しかもすぐ次の節でw
理解することと実行することの違い
こんなのは誰にでもあることであり、理解しててもできないのは人間であるから故だとすら思う。
お互い苦労するわね。(笑)
「ハイの実践」についての捉え方は様々だけど、丸山敏雄のいいたいことは「すべてそのまま受けなさい」ですし、敏秋さんが言っているのは少しそこから離れているようにも感じる。
なぜなら極端な愚問に対しての回答を逃げてるから。「そんなことは起こり得ない」って、それは答えにならないし、盗人に与えていると思ったとて、自分はそう思ったところで「そのまま」ではない。事実を自分の捉え方で捻じ曲げただけの自己満足になる。
自分の心を捻じ曲げるということはすでに「そのまま」ではなく、それを続けていると自分を失くし、精神的に無となり、そして自我が崩壊する。人ではなくなる道となる。
私、丸山敏雄がそんなこと言っているようには思えないんだけど🤔
敏秋は敏雄のこどもだから近くで見てきているのはわかってるけど、敏雄の伝えたいことを受け継いでるとは思えない。別人なんだから当然です。だれでも自分の子供に全てを理解させることはできないし、自分の親の全てを理解することはできません。自分に置き換えればわかること。親として見せたい姿もあれば、親として見せたくない姿もある。親と子の立場であればそれは然り。関係性のない存在なんてものは無く、同一になるために生まれてきたのではない。子は親を超えるために生まれてくるんだから。そうはなかなかなれないんだけど。
エピクロスの「アタラクシア」に通じる
「我儘」を取り去るという考えは、これまでの多くの哲人が諭してるけど、一番思いだすのはやっぱエピクロスの「アタラクシア」だよね。
そしていつも「アラタクシア」…?って、ここ一回は間違えて思い出す(笑)
エピクロスは簡単にいうと、快楽主義という概念で、生きることに必要ではない贅沢なものをとして、一切の快楽を省くことで心の安寧を保った状態「アタラクシア」こそが幸福となる道と説いた人なんだけど、時代背景が大きく影響した考え方だと思う。
もちろん、生きることに必要ではない贅沢なものは棺桶に入らないし、贅沢な生活イコール幸せにはならないかそこは確信できるんだけど、人間らしい欲まで排除してしまうのはいかがなものでしょうね。
その時代は、どうしようもない物が多すぎた。その時代に限らず、生まれたときから決まってることはいまも多いかもしれない。でも、いままでの時代を総じてその生まれたときから決まっていることの影響は大きかった。
近代哲学が重要だと思うのは、この時代背景が関与するからじゃないかな。
真理に近いもの、本質に近いもの、もしくは真理や本質は違わないけど、すべての真理・本質は見つけられていない。あったりまえじゃ。人が考えることはできないということだけはすでにわかってることなんだから。
丸山敏雄の哲学も同様に、時代背景は無視できないという前提は、栞の冒頭にも「その時代のものだから多少内容に影響があるよ」っていうようなことが書いてあった気がするよ。
拷問の境地の経験はいまは誰もが知る心理
引用とようとググったんだけど見当たらなかった(´・ω・`)ショボーン
人は、拷問など逃げられないことに直面し続けると、相手に思いを寄せるようになる。
これは、最近戦争中の海外で捉えられていた日本人(ニュースでも大騒ぎになってた人質の人)も言っていて話題になったけど、この心境みんな理解できるのかしら?
私は父に殴られて育ったからなのかしらんが、よくわかる。
わかりたくもない、辛いことだけど。(自分のことは勝ったと思ってるので気にもしとらん)
これはきちんと解明されている人間の心理状態で、極限まで追い込まれると相手に思いを寄せて自分を慰めることで心の痛みを消す防御本能だそうだ。
ソースがちゃんとあったら証明できるのに、見つからなくて申し訳ないけど。
心理学や精神医学を学んだ人なら知ってることじゃないかな。
だから、それは不思議な体験ではなく、自然な人の心理なんだそうですよ、丸山さん。
人は比べる対象があると、その人も自分と同じように心があると思う。その心になにを当て嵌めるかは、己自身でござる。
見出し『「働き」の質の違い』
物は「動」ってここでも言ってる😨
さっき本質は「静」って一瞬言ってたけど、やっぱ「動」でいいんだね(笑)なんやねんw もう「極は静」とか忘れろやw
『労働』から『喜働』に代える
これいい提案だね!
「大変でやりたくないけれども仕方ない」仕事なんて辞めてしまえ。
「楽しくて挑戦したいから、やりたいからやる」仕事を探し、苦難があっても楽しんで乗り越えれる仕事に変えてしまえ。
私は労働者じゃなくて、喜働者ですっていうようにしよう。(笑)
楽しく仕事できないってことは、楽しく人生を送れないってことなんやで。働く時間は1日のほとんどを占めてる。人生の多くを占めてるんだぞ。起きてゲームしててもなにも残らないからな。
大好きなゲームを仕事にしたら大好きじゃなくなるって、えっと、なに言うとんねんって話。
それはゲーム好きだったんじゃなくて、だらだらしてるのが好きでしたってこと。見てるところが違う。
もっと俯瞰して、自分がなにが嬉しいのか、楽しいのか、なにがしたいのかを考えなさいまし。
遊働一致の境地
ああ、そう!これこれ。
遊ぶも働くもない。好きなことやってるんです。そしてそれを見ている人達は仕事と呼んでいるんです。
例えば、法人会は仕事なの?遊びなの?経営塾は仕事なの?遊びなの?
二極化する必要はないけど、私にとってはどっちも遊びです。
人生を豊かにするための遊び。
プロとしての誇りはあるけど、それはお金を頂いて行っている責任と、培ってきた時間があるから。
経営者としてまだまだ若輩者だけど、雇用主である以上、責任と誇りをもつプロのとして行動するのは当たり前の心構えだと思うから、がんばっておる。才能なんて当てにならないものに頼らず努力でカバー。がんばれわたし。
法人会や経営塾で、人間性を磨き、人から学び、情報を得て、スキルを上げ、社業や人生に還元するのが目的。
その目的が明確だから、「もうここで学ぶものはないな」と思ったらバッサリ切る。時間は貴重だからね。
ただ、「もうここで学ぶものはないな」って思う節に疑問が残る。
だって、10年学んだ先に見えるものは学んだと思う?10年いないと見えないんだからまあ学べてないわけだ。
継続は力なりじゃないけど、続けていないと見えない視界というのは在る。
ほとんどの人がそれがわかってない。そんな人達どうでもいいけど。
ADHDが『続ける』ということは、自己制御どれだけ大変やと思うねん。これ乗り越えたら見えるもの見たいと思うやろ。
創意工夫でがんばりますよ。ええ。ええ。仕事は楽しいけど、法人会はくだらん人が多いから本当は好きじゃない。
そう思う自分に嫌悪感を感じるから、環境が人を作るという概念から辞めたほうがいいと思ったけど、
その中に、キラリと光る人がポツポツいる。その人達だけ見てがんばればいいと、最近思えるようになりました。
みんなお酒飲むから、バカな時間の使い方や、バカなお金の使い方をする選択肢とるんだって気づけばいいのに。
たばこは行動を変えない。お酒は行動が変わってしまう。そこが楽しいんだろうけど、そんなのに頼ってるうちはごまかしてるだけ。そんなのに頼らなくてもいい勉強してるだろうにね。
お酒飲んでるところ可愛いけど(笑)
どんだけ鍛えてもアルコールは筋繊維も崩壊するからもったいないなと思うけど、ビタミンC崩壊しつづける喫煙者は黙っておくわ(笑)
「いま」を生きるということは、私は体力もなくなってしまったし、心が弱くなってしまったから、ルーチンを復活させて自分を取り戻さないとね!😊
ちなみになんですけど、ルーチンは昔からちゃんとあるんだけど、なにかあると崩れるの。だから、なにもないのが一番楽なの。自分のペースを崩すものがあるとダメなのは十分わかってるんだけどね。。。
これ人にも言えるよね🤔
人のペースを崩すようなことしないようにせんといかんね🤔
鳴る
美しい響きだよね😊鳴る。
心に鳴り、郷に鳴り、国に鳴る。
七つの原理
心に鳴りは響いたけど、郷と国には鳴らないわ(笑)
名古屋は好きだし、名古屋人の心意気は好きだけど、固執してないから。国も。
鳴り了えて、成る。鳴りは開花であり、成るは結実である。
七つの原理
待て。
心が鳴ることが成るに直結してないぞ。
・・・🤔?
いや、なってないぞ。
はたらきの倫理は、「鳴る」に出発し、「成る」に終る。
七つの原理
あ。理解!
自然や芸術に心が鳴るって話じゃなくて、はたらきに鳴りだから、心が鳴る仕事をすると成るよって話か!
うん。じゃあ成ってるね😊
うちは理念からできてる企業だからね、心が先なので。
簡単に心は届かないのがむずかしいけどねっw
尊己及人
人我一体、天人不二、絶対無我、純一無私。
人我一体は佐藤一斎の言志四録からだとして、残りは仏語でもないみたいだけど、丸山敏雄の造語かなぁ🤔
馴染みるある言い方でいえば、やっぱりデカルトの「我思うに我在り」。
この世は自分が中心だー!とかいう話じゃないよ。一応言っておくけど、唯我独尊もそういう意味じゃないよw
自分しか存在の証明はできないからこそ、自分の存在はかけがいのないものであり、自分がいまあるのは自分の力だけでなく先祖が数多の時代を生き抜き続けた結果であり、そして人の歴史を紡いできたものだから、自分の存在は素晴らしいんだよ。たくさんの幸福を持っているんだから、人にも分け与えましょうね。するとまたそれが返ってくる。人に捧げ、捧げられ、そうやって人類は繁栄してきた。長い時間の中で自分がいま在るんだけど、いま在るのは自分という存在。自分を大切に思ってくれる人がいるなら、まずその人が大切にしている人である自分を大切にしようね。そして、大切にしてくれる人を、自分の手が届く人を、影響できる人を、大切にしていこうね。全てが自分のことだから。
とまあ、そういう意味だと思う。
私の考え方がだいぶ入ってるかもしれないけど。
これはね、誰に言われたわけでもない。私の人生で学んだ生き方なの。
大切に育てられてると思ってるから。
親だけじゃない。妹やおばあちゃん、おじいちゃん、お兄ちゃん、親戚だけじゃない。自分の家族だけじゃない。友達だけじゃない。ご近所さんだけじゃない。
マイペースで、空気が読めなくて、自分が納得できないことは曲げなくて、自分の信念が強くて、ブレないユキエを大切に守ってきてくれてる人に囲まれて生きてきたの。
辛いことなんて山ほどある!
だけど、乗り越えられたのは大切にしてくれる人がいてくれたから、いまがあるのさ。
感謝しかないでしょ。
恩返ししてもし尽くせないくらい、たくさんの人にお世話になってる。
誰かに感謝の気持ちを返したいじゃん。
たくさんの人に同じ思いを届けたいの。
丸山敏雄もそう思ってたから教育者になったのかもしれないね🤔しらんけど
なんも偉くない。当たり前のこと。そう育ててもらったし、それは美しいと私の感性で思う。
自分が信じたことだから、その人生でいい。唯我独尊ですし。いうても心が弱いから否定されると寝込むけどw
みんな唯我独尊なんですよ!
あの、どうでもいいですけど、唯我独尊って辞書で引くと
この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。釈迦しゃかが生まれたときに七歩歩き、一方で天を指し、他方で地を指して唱えたという言葉と伝えられる。この世の中で自分より尊いものはいないという意味。▽「天上天下てんげ唯我独尊」の略。「唯我」はただ自分のみということ。「独尊」は自分だけが一人尊いということ。
goo辞書
アホかぁぁぁぁぁーーーーーーーwwww
ちゃうわボケェーーーーーーーwwwww
まーどーすんねん、この誤解。解くのもなんだかもうムリゲーやわ。
そんなわけで、ソースを探してみたところ、大谷大学助教授 泉 惠機先生(解放の真宗学)が説明してくれてる文を見つけました♡
釈尊は、生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられている。この言葉の意味するところは、唯だ“私だけが尊い”という意味をあらわしているのではない。
「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。
参照:大谷大学 生活の中の仏教用語
無知な庶民のためにご教示くれて、ありがとう泉先生・・・😭
いや、なんで知らんねん!と声を出しにして私は問いたいわっ!
お釈迦様が生まれてすぐ「私が一番偉い!」って天を指さして言ったとか、おかしいと思わんのか?w
仏典作った人やぞ?!仏教作った人やぞ?!www
ま、倫友は知ってることを祈ろう。。。
まあ、道元も仏法のことを差ししてると言ったとか、諸説あるみたいだけど、ちゃんと考えられる人ならおかしいと気づくことだからな。
浄土真宗のサイトでも見つけたから置いておくね。
ここでも「常識的に考えてもわかるだろ」って書いてあったのが刺さったから(笑)
「唯我独尊」とは「ただ我々人間のみが成しうる、ただ1つの尊い目的」
参照:浄土真宗 親鸞会
「天上天下」とは「天の上にも、天の下にも」、大宇宙において、ということです。「唯我独尊」の「我」は、釈迦だけのことではなく、「我々人間」のことなのです。ですから「唯我」とは「ただ、我々人間だけが」ということ。「独尊」とは、たった一つの尊い目的を表しています。「天上天下 唯我独尊」とは、大宇宙広しといえども、犬や猫、牛や豚に生まれていたら果たすことのできない、唯、我々、人間のみが成しうる、たった一つの尊い目的があるということなのです。