第五条 憤の一字は、是れ進学の機関なり。舜何人ぞや、予何人ぞやとは、方に是れ憤なり。
発憤の「憤」の一字こそ学問向上の大本である。孔子の高弟・顔淵が「あの理想の皇帝とあがめられた舜王も、われわれと同じ人間ではないか。志さえしっかり持っていれば誰でも舜王のようになれるのだ」といったのも、まさに発憤したからである。
言志録訳
いいねぇ〜夢がある!✨
て、さすがに誰でも舜王のようにはなれないと思う樂
なぜなら生まれた環境や引き継がれた遺伝子他、自我が生まれてからの自分ではどうしようもないことは山程あるし。
私がいつも自分に言い聞かせてる言葉に
「今からどんなに頑張ってもジョブズにもマザーテレサにもなれない。だから遠慮なく全力を出していいんだ」
に少し近いかな
私に限らずだと思うけど、日本人は謙遜という魔法の言葉で自分が飛び出る杭になる事を自らで封じてる気がするんだ。
どんなにがんばったって、世界の偉人を前にしたら大した人間にはなれないさ。
だから遠慮なく、周りから飛び出た杭になっていいよ。てこと。
根拠のない自信でもいいじゃない。そこから根拠となるものを作ればいいし、諦めなければ「今」が一番若いんだ。遅いなんてことはない。必ず作れる。
ただし、真剣に、全力でやらなけりゃきっと行きたい場所には届かない。
中途半端にできたからって、目的値が低かったというだけで、目指したいところはそこじゃないでしょう?きっと達成感なんてないよ。
絶対といわれるものは多くないけど、在る。
時間と寿命。
アクシデントで明日しぬかもしれないけど、それはアクシデント。それを含めたとしても、100歳まででも生きる予定で計算した方がいいんだ。
となると、どんだけがんばったって、いつかしぬし、やがてたくさんのことを忘れていく時が来る。体がいうことをきかなくなるときもだんだんとやってくる。
その時が少しでも遅れてくるように、お手入れは十分した方がいい。それでも徐々にその時はやってくる。
だからね
謙遜という、人を、自分を抑えつける魔法をかけるんじゃなくて、夢を語ろうよ。
目標を大きく作ろうよ。
その成就の為にしなきゃいけない中目標はたくさんあり、さらに小目標は山程ある。
だれもが歴史に残るほど大した人間じゃないんだから、謙遜なんて必要ないんだよ
目標は目指すものだけど、
結果はね。
後からついてくるものなんだ。
そしてこの章の解説ではこう締められている
偉人伝のよさは子どもたちに「負けてなるものか」と、発憤の材料を提供することである。発憤こそ志のエネルギーということだ。
偉人伝、古い童話、そして少年ジャンプで育てると、私みたいのが育つのかな?樂