目指すはなにかと考えた
最近、自分は何を目指してるんだろう?と考えた時に、
『穏やかな時間』だと思ってたけど微妙な違和感を感じてて、少し違うな🤔と気がついた。
もちろん、穏やかな時間は大好きだし、私にとってすごく大切な時間なんだけど、『穏やか』って表現は的確ではないかも。
そう思ったんだ。
例えば、平日の朝、ひとりでカフェに来てモーニングを食べて、テラスでこうやって思考に耽ってる時間や、時に本を読んだり、勉強したり、仕事をしたり。
この時間が止まってるような、
世の中から隔離されてるような時間が自分にとってベースとなる過ごし方になる。
でもこういう時間はタスクの期日に余裕がないと取れないから、穏やかな時間という表現も正しく思うけど、
『優雅な時間』…のほうが少しピントが近いかも🤔
遠くに行く必要もなければ、お金をかける必要もない。
こどもの頃から、時間の概念がどうやら人より強いみたいだから、過ごし方。使い方が自分の繊細な部分の多くを占めてるように感じる。
強烈な孤独感とこの時間の違いはなにか
自分はいわゆる『淋しがり屋』ではないようにと思う。
少し近いところでワガママと思う節はあるけど、どちらかというと時間の使い方の面で自己中心的な部分がある。
だから、いま話したい、いま会いたいと思える1人2人が、同じように自分との時間を求めているというシュチュエーションを求めてる。
みんな自分の都合があるわけだから、当然時間が合うわけでもないのはしっかり理解してるから、自分の都合に合わないことが哀しいんじゃなくて、他に会いたい人、話したい人、自分と同じように会いたいと思ってくれてると信頼できる人がいないという事実に憂いたりする。
そこに自分が他人に対しての接し方が垣間見えて、結果自己否定に繋がる。
これが時々発作のように起きる『強烈な孤独感』ではないかと思う。
その時、偶然電話やLINEで繋がると、一時的に安心から愛で満たされ解放される。
ただ、この一時的にというのがまた厄介で、しばらくするとまた発作が起きる。
この発作の根底にある原因を解決させないことには、しばらくこの強烈な孤独感が続くのだ。
孤独感も虚無感もすべてはまやかし
これらの心理的不安要素の原因はなんであれ、すべてまやかしだと思ってる。
心の動きは曖昧で、そう感じる元は捉え方次第でどうとでも変えることができる。だからすべてはまやかし。
事実はひとつでも、解釈は無数。
ならば、人が伝える真実も、視点や立場、様々な状態・状況から見る以上無数にあることになる。
少々乱暴な理論になるけど、人は捉え方の中だけで生きてるといっても過言ではない。これは解釈ではなく、哀しかろうが嬉しかろうが、自分と他者がいる以上、事実でしかない。
だからダメ。ではなく、だったら状況が好転するような解釈をしてもいいということ。
強烈な孤独感との向き合い方
平日の朝、女性ボーカルの優しいJazzが流れるカフェのテラスで、こうやってひとりでしかできない思考に耽ってり、本を読んだり、中長期事業計画や人生計画を考えたり、、、
これってスゴく優雅な時間だと思うんだ。
この時間が、発作を起こさないようにしてる。
発作が起きた時は、自分じゃもう解決できないし、自分で解決させてはいけない。なぜなら、その状態から良い解決法はきっと出てこないから。
発作が出た時は、大好きな人に頼る。それでいいし、それがいい。
苦しい時ほど人に頼るのはむずかしい。だからこそ、頼りにすることを伝えておける人をもつこと。
苦しい時に頼れるように、自分がその人から頼られるように、日頃から接することを忘れない。
まあ、言うが易し 行うが難し よね😂
一番手っ取り早いのは、やっぱり身体を動かす趣味をもつことに尽きる!
飽きず、楽しんで身体を動かすことができるなら最高だけど、どうにも飽きちゃうんだよね〜🤔
体力がなくなってからだと、始めること自体がもうしんどい。HP以前にMPがほぼないから、すぐ宿屋コースだよ😩
でもまあ、これ以外に方法はない!
読書や勉強など色々模索してきたけど、これは多分人が心身ともに健康的に生きてく上で必要みたい。
選択肢は、なにをして身体を動かすのか。
ウィンドウショッピングは市場調査的に楽しいけど、いつもそんなに時間かけてられないから、たまにしかできない。
旅行も見解を広げるためにも、自然に癒してもらうためにも必要だけど、やっぱり時間が要る😂
日常的に行える散歩や自宅トレに楽しみを見出すのが一番効率的だから、結論ココだな🤔
・・・なにも新しいことはないな😭
敵はいつも自分の中のヤツ
対策を考える相手はいつだって『自分』よ笑😭
自律が一番効率的!
いつもどんな時も笑顔の連鎖ができるように、自分を律せるようがんばりまっす!💪